「POKÉTOON」シリーズの新作、「ぽかぽかマグマッグハウス」を見て改めて、ポケモン公式の想定している「ポケモンと人間の共存した平和な世界」は幻想が過ぎるというか、詰めが甘いのではと思いました。
まず、アニメ自体のクオリティは相変わらずよいです。ヤクデデザインのマフラーとか、細部の小物にもこだわってるし、ポケモン達の動きや表情もかわいい。
宣伝にかける金があるなら、ゲームメインシリーズにもっと金と時間をかけて開発してくれよ、と思ったりもしますが(株ポケとゲーフリは別会社だが)、良い物をつくられると、しょうがないなぁ~と許しちゃうところはあります。
今回のお話は、マグマッグが主人公でしたが、このようにマイナーなポケモンがメインになるのは素直に嬉しいです。マグマッグの喜びの表現が煙、というのも、人間とは異なる感情表現になっててよい。
マグマッグ以外のポケモン達も可愛かったです。イッシュ地方のポケモンが多いな、という印象でしたが、冒頭に野生のココガラがいたので、どの地方が舞台なのかは判断が付かないかなと思います。
ポケモンがいなくても生きていけなければ
一番引っかかったのは、このこの老夫婦(公式Twitterによると祖父母らしい)は、果たしてポケモンが突然いなくなっても生きていける生活形態なのか、ということです。
暖房やお風呂、料理の火はマグマッグに、薪割りはオノノクスに、恐らく掃除はチラーミィに、かなり頼っているように見受けられましたが、どうでしょう。
例えば、薪割り用の斧が見当たりませんが、自分たちでも薪を割れるのでしょうか。マグマッグがいなくとも、毎日ストーブで火をおこせるんでしょうか。煙突の掃除は?
食事のシーンでは、「マグマッグが手伝ってくれた」というセリフがありますが、見たところ「手伝う」どころかマグマッグの炎だけで料理しているように見えます。「手伝う」とは?
ショートアニメなので「描写されてないだけ」と言われればそれまでですが、ポケモンがいなくても生きていける前提の提示がまるで見当たらない以上、「ポケモンのおかげで生活が成り立っている」と捉えられてもおかしくないと思います。
ちなみにイトマルたちの糸で編み物をするシーンは、個人的かつ趣味のようなので、問題ないと思います。
ポケモンは道具でない…ハズ
もし「ポケモンたちがいないと困る」生活をしているなら、そのポケモンたちは人間にとっての「家族」や「友達」のような存在ではなく、生活のための「手段」に他ならないのではないでしょうか。なぜなら、ポケモンが手段でないのなら、ポケモン達は何の役に立たなくとも、ただそれだけで価値がある存在として、そこに居られるはずだからです。
ここでのポケモン達は、みな「ただいるだけ」で価値のある存在として描かれているでしょうか。見たところ、そのように扱われているのはイーブイとダルマッカくらいでしょうか(ダルマッカはグレーだが*1)。
何もできなくても、何の訳にも立たなくても、毎日食べて寝るだけの存在でも、受け容れられ、大事にされる存在として、ポケモン達は扱われているのか。結局のところ、「人間の役に立つ」からそのポケモンと暮らしているように見えてしまいます。
ポケモン達は生き物である以上、体調や気分の波もあるだろうし、いつか死にます。マグマッグやオノノクスが亡くなったら、すぐ次のマグマッグやオノノクス(と同じことのできるポケモン)を「補充」するんでしょうか。そうしないと、それまでのフツーの生活が成り立たないからといって。
やはり、「どのポケモンがいなくとも生活が回る」前提がないと、あの二人はポケモンを手段、言い換えると「道具」として利用しているのでは、という懸念が払拭できません。「ポケモンの道具扱い」は、ポケモン世界では道徳的に悪いこととされているはずです。結果的にであれ(悪意はなくとも)、いい人であるはずの老夫婦が、ポケモンをモノ扱いしているとなれば、作中の倫理観のゆがみになります。
もし、「ポケモンに手伝ってもらう」ということにしたいなら、「日常的に」ポケモンに「手伝わせる」のではなく、「有事の時のみ」ポケモンの力を借りる描写であれば、可能なのではないかと思います。ポケモン世界の技術力は高いわけだし、暖炉も薪割りもボタンひとつで動かせてもおかしくないと思います
ガラル地方のロトム図鑑やアーマーガアタクシーなんかもそうですが、テクノロジーで代替できるのにわざわざポケモンを使うのは、時代に逆行していると思います。動物の使役に反対して自転車を開発したルイス・ゴンペルツを少しは見習ってほしい。
まとめ
アニメーション自体のクオリティも高く、面白いし、他のPOKÉTOONシリーズと同様に、この作品に対するファンの評価も高いと思います。
ただ一方、詳細に描写されたポケモンとの生活は、ポケモンの特徴や能力が全面に出てくるあまり、その能力が人間にとっての手段と化しているようにも受け止められます。
もし仮にポケモンのおかげで生活ができている状況ならば、人間はポケモンに道具的価値を見いだしていることになり、ポケモンの搾取になっていることが懸念されます。
「ポケモンの能力を生かした生活」に「夢がある」ことも理解できます。その「夢」のため、ポケモン公式が提示してきた「ポケモンとの暮らし」は、ポケモンの特徴や能力がいかんなく発揮された世界になっているのだと思いますが、果たして本当にそれでいいのでしょうか。誰か、ここら辺もっと深く考えてみてほしい。
余談ですが、手段化されたポケモンの描写を見ていると、悪役の「ポケモンは道具」的な発言を見るたび「そうですよね、そうなってるもんね」となってしまい、主人公側に共感できずにいます。
いつか、「ポケモンは道具ではない」という前提を体現したポケモン世界を見てみたいです。それか、ポケモンは現在も手段的扱いをされているという前提に立ち、ポケモンとの真の共存を目指す話とかでも。
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